中毒は誰しもがなる可能性のあるもの
母校での最後の音楽療法公開講座、昨日はジム・ボーリング先生の「音楽療法、ボニー式GIM、中毒の共通特性」「コンシャスドラミング:心からのドラミング」でした。
中毒って何?という話から始まったんですが、どうしてこの話しから始まったかというと、セラピーに携わる人たちが中毒というものに偏見を持っている可能性があるからだとボーリング先生は言っていました。
中毒と聞くと「私はそんな状態にはならない」と線引きしてしまいがちですが、誰しもがなる可能性のあるもっと身近なものなのだと言うのです。
ボーリング先生は中毒のことを「分離の究極の状態」と言っていました。
私はコラージュを趣味で作っていますが、その時間は生活の細々したことを忘れ、そのことに集中しています。
この状態も「分離」の状態。
それが病的に分離してしまうと、四六時中そのことばかりを考え、解決方法がそれしかない、体の感覚などを失ってしまうなどの状態になります。
「分離」という状態はスマホやゲームに集中している時、趣味に没頭している時など誰でも経験するもので、誰しもそれを悪化させて中毒になる可能性があるのです。
この話を聞いていつも思うのは「知る」ということは大切だということ。
知らなければ自分に差別意識があったということにすら気づかない。
なるべくいろいろなことを素直に受け入れ、知ろうとする姿勢を忘れないでいたいです。
知らないことは知ろうという意識すら持てないっていうこともあるんですけどね。
一生の努力目標です。